2013年06月30日

旅行記が終わり旅が終わった気分

プノンペン旅行記、旅行直後はなかなか書けませんでした。いろいろ忙しかったうえ、残酷な歴史の傷跡をうまく書き表せるかと思い、旅行記がすすみませんでした。しかし、ここ1週間ほどで、バンバン書きすすめることができ、完成させることができました。ブログでは最終日の帰国便のことはとりあげませんでしたが、完成した旅行記には帰国便のことも含めてあります。

いつもながらですが、旅行記が終わると旅が終わった気分になります。いま、ホッと一息ついているところです。

「ユーラシア紀行」のトップページから入るか、下のリンクをご利用ください。

http://tombi00.sakura.ne.jp/cambo/cambo15.htm
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昼食と王宮リベンジ

プノンペン旅行記3日目2回目

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 チェックアウトタイムの12時寸前まで、シャワーを使ったり、荷物を整理をしていた。従業員が15分ほど前には部屋にやってきた。もうすぐチェックアウトすると伝えた。

 12時の直前にチェックアウトして、荷物を預かってもらった。

 まずは昼食をとる。パンケンコン・エリアにある「クメール・スリン」。パンコンケン・エリアは外国人向けの店などが多いエリアである。

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 冷房は入っていなかったのだが、店内に植物が多く、気持ち涼しいという感じだった。でも、蚊などが少しいたのが難であった。

 料理がでてくるのが遅かったのだが、この日に限ってはよかった。食事のあと、王宮に行くのだが、王宮は14時まで閉まっているからだ。

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 飲物はアンコールビールの生ビール。

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 アモック・トゥレイなのだが、小分けしてそれぞれに蓋がつけてあった。

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 蓋をいったん全部取って撮影。なんだかタコ焼き器のようだ。

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 アモック・トゥレイは雷魚のココナッツミルク蒸しらしい。酸味と辛みがきいて結構うまい。

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 大きなおにぎりのようなご飯。

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 デザート。名前は何だったかな。

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 14時ごろまでゆっくりと昼食をとり、時間調整ができてよかった。

 食後は前日に入れてもらえなかった王宮へ。独立記念塔の前を通ったが、前日とは違った道を歩いてみた。

 途中、カンボジア・ベトナム友好の塔の前を通った。ベトナム軍の侵攻によりポルポト政権が倒れたのが1978年。その後、親ベトナム政権に対して、反対勢力が対抗することになり、内戦が続いた。ようやく1991年に内戦が終わり、国連の管理がはじまり、1993年にシアヌークが国王に復帰してカンボジア王国が復活した。
 その後、カンボジアとベトナムは不可侵条約を結ぶのだが、それを記念して建てられた塔である。

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 いよいよ王宮に到着。中に入るとまず目に入るが即位殿。戴冠式はじめ重要な儀式が行われる。内部をのぞいたが、撮影禁止。

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 宝庫。

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 ナポレオン3世の館。フランスから移築された洋館なのだが、工事中で中はよくわからなかった。

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 王宮とシルバーパゴダは同一の入場券で入れ、一体のように扱われている。この寺で王室の仏教行事が行われるためであろう。

 内部には銀のタイルが敷かれているのでシルバーパゴダというようだ。内部は撮影禁止だった。

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 シルバーパゴダの庭と仏塔。

 このあと国立博物館へ。内部は撮影禁止。ホテルに戻るには早すぎたので中庭のネンチにすわり時間つぶしをした。

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2013年06月29日

朝食は市場で

プノンペン旅行記3日目1回目

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 前日はホテルで朝食をとったが、そう変化もないことだろうしと考え、この日の朝食は中央市場でとることにした。

 7時にホテルを出て、朝食後はさらに観光をして10時半ごろにはホテルに戻ろうと思う。12時がチェックアウトなので。

 前日は閉店してしまい、入れなかった中心の大屋根の下の売場にまず向かった。だが、まだ店開きしていなかった。

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 中心の大屋根の周囲にはたくさんの売場があるのだが、そこはにぎわっていた。

 魚の売場。メコン川やトンレサップ川でとれた魚なのだろうか。

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 食堂が集まっているエリアもあった。そこで朝食をとることにした。

 いくつかある店のうちで、麺類の店の1つに決めた。

 注文は言葉が通じないので、なかなか難しい。麺は米の麺だけのようだが、タイと同じで太さを選ばねばなならい。麺が離れた場所においてあるので、指差してもわかりにくい。それでも太い麺を指差して、なんとか通じた。

 困難をきわめたのは具を何にするかということ。そもそも具に何があるのかわからない。そのうえ、目の前に具が置いてあるわけでもない。もう、店のおばさんまかせにするしかない。

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 結構、いろいろな具が入っている。これが基本なのか、サービスで多くなっているのかのも不明。豚の血を固めたようなものだけは、苦手で食べ残した。値段は4500リエル(約125円)。

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 太麺を引上げ撮影。

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 味は自分で調整するのだが、右下の砂糖が特徴か。

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 薄いパンのようなものに白米と黒米をおき、砂糖をまぶしているものを売っていた。1000リエル(約28円)。

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 さっそくいただいた。ちょっと口には合わなかった。

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 日本の援助によるトンレサップ川の橋を渡ることにしたが、歩いて30分ほどかかる。その途中、プノンペン中央駅の駅舎を見にいった。

 旅行当時、カンボジアの鉄道は全列車が運休中で、このまま廃止されることもあるかもしれない状態なのだが、この駅はきれいに残されている。入口は閉ざされているのだが、いつでも運転が再開できそうな雰囲気ではあった。

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 カンボジア日本友好橋の歩道に上る階段の入口。ポルポト派の攻撃で破壊されたのだが、日本の援助で修復したので、カンボジア日本友好橋と呼ばれるようだ。

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 橋の上。橋は全長700mだが、トンレサップ川の上の部分でいうと500m。反対側にも下りる階段があり、往復で1kmだ。

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 橋の上から見たトンレサップ川。

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 橋の北側にもうひつの橋を建設中であった。建設していたのは日本の会社。交通量が増えたので、2本の橋を方向別にして使うためだろう。

 ゆっくり歩いて10時半にホテル着。12時のチェックアウトまで、シャワーを使ったりしてゆっくりとすごした。

posted by とんび at 19:36| Comment(2) | カンボジア

カンボジア料理

プノンペン旅行記2日目4回目

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  プノンペンでは2泊しかしないうえ、初日は北朝鮮レストランに行ったので、カンボジア料理の夕食を味わえるのはこの日しかない。

 さいわいホテルから100mほどのところに、ガイドブックで安くて旨いと書かれたカンボジア料理のお店があったので、ここに行ってみることにした。

 「ロムデン」という店で、1軒のフランス風の邸宅をリノベーションして使っているとかで、おしゃれな雰囲気なのもいい。

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 NGOが経営していて、ストリートチルドレンだった若者を雇って、社会に送り出す目的で店を出している。いわば職業訓練の場なのだ。そのためか、店員のサービスはぎこちないところが多々あったのだが、笑顔で対応してくれて感じはよかった。売り上げはNGOの活動費になっている。

 プノンペンでは外国人に人気のある店のひとつとかで、店の前にはトゥクトゥクが待機している。

 本当はプールぎわの席を確保したかったが、混んでいて、それはかなわなかった。邸宅の中も興味があったが、冷房がなかったので、暑そうで、屋外に席をとった。それでも暑かったのだが、扇風機をすぐそばに置いてくれたので気持ちよかった。

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 飲物はアンコールビールの大瓶を注文。ラベルにはアンコールワットが描かれているのが特徴。カンボジアでは一番目にすることが多いビールだ。暑いので、ジョッキでグッツと気持ちよかった。

 料理は英語も併記されていたが、どんな料理かイメージできないままに注文したら、注文した二品とも予想外のものが運ばれてきた。

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 米の細めんと生のもやし、パパイヤ、ゆでた豆をスープカレーに入れて食べる料理。

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 バナナリーフに入ったチキンカレーとご飯。

 お腹一杯になってホテルに帰り、2日目終了。

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2013年06月28日

プノンペン街歩き

プノンペン旅行記2日目3回目

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  ウドンから戻った後、1時間ほどホテルで休憩。15時ごろに街歩きに出発。もう15時になっていたので、昼食はパスすることにした。

 まずは、ホテルから20分ほど歩いて、独立記念塔へ。1953年にフランスから独立したのを記念した塔。アンコール遺跡の塔の形をモデルにしている。ロータリーの中心にあって、近寄ることはできなかった。

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 独立記念塔のすぐ北側には大使館が集まっている。そのため警備が厳しく、屋台などはみられず、他のエリアとは雰囲気が違っていた。

 大使館エリアの北側には、ストリート240があり、外国人向けのおしゃれな店が軒をつらねている。並木があって、涼しげなのもいい。

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 さらに少し歩くと王宮がある。王宮と一体になっているシルバーパゴダもあわせて入場しようとしたのだが、このときはクローズだと言って、入れなかった。僧侶が入っていく姿がみられたので、何か行事が行われていたのだろう。

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 王宮の前には大きな広場があった。芝生で覆われていて気持ちよさそうだが、実際にはとても暑く、日のあたる広場には出ていられなかった。このとき、黒い雲が空を覆い始め、スコールが近いことがわかった。

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 王宮の前には、国王の大きな写真がかけてある。2004年からシハモニ国王になっている。

 カンボジアの王様としてはシハモニ国王の父であるシアヌーク国王の存在がとても大きい。フランスからの独立したあと、王国でありながら社会主義的な政策で反米的な国づくりをした。しかし、親米的なロンノル政権ができ、国王の座を追われ、国はクメール共和国となり、中国に亡命。かつて社会主義的政策をとっても、急進的なポルポト派は弾圧していたが、亡命後はポルポト派と協力。しかしポルポト政権ができ、中国から帰国するが、まもなく王宮に幽閉された。親ベトナム政権ができると再び中国に亡命し、反ベトナム勢力のまとめ役となった。ベトナムの撤退後は内戦の終結につくした。まさに激動の時代を生きた王であった。

 2004年にシアヌークはシハモニに王座をゆずり、北京で療養。そして2012年にシアヌークの死去で名実ともにシハモニ国王の時代になったといえる。もっともカンボジアは王国とはいえ、タイに比べると象徴的な王だといえ、目立たない存在だ。

 1970年にシアヌークは王座を追われて以来、ロンノル政権、ポルポト政権、親ベトナム政権の時代を経て1993年に王座に復帰した。世界の王様の中でも珍しい存在だともいえる。

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 王宮のすぐ北側にあるワット・ウナロムまでやってくると、多くの僧侶がワットに入るところだった。

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 僧侶の後ろには一般市民もたくさん歩いていた。仏教の特別なお祭りの日だったのだろう。

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 トンレサップ河畔にでてみた。ちょうどスコールが始まり、あわてて王宮前広場の近くにある雨宿りできるところに駆け込んだ。

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 屋根の下はたくさん人であふらかえっていた。スコールは20分ほどで終わった。

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 メコン川とトンレサップ川の合流点。写真で中州の向こう側がメコン川。手前がトンレサップ川だ。

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 トンレサップ河畔には万国旗がならんでいた。それにしても、この国旗の並べ方にはびっくりした。

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 街中にはサルが闊歩していた一角があった。十数匹のサルが電線を伝って、道路の一方の側の屋根から、その反対側の屋根に渡っていくさまは迫力があった。

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 旧中央郵便局。いまは郵便電信省として使われている。

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 こちらもフランス時代からの古い住宅。

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 ワット・プノン。階段の下。

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 階段を上ったところの本堂。

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 中央市場。フランス時代につくられた建物。中は17時になると閉まるらしく、閉まっていた。

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 ホテルに戻り、カンボジアビールをいただき、夕食ででかけるまで2時間ほど休憩。
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2013年06月27日

「うどん」の起源?のウドン

プノンペン旅行記2日目2回目

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  駐車場から石段を上る。石段は2箇所あって、マンステップとレディスステップとガイドブックに書いてあるが、これがどちらかわからないまま上りはじめた。レディスから上り、マンで下りるのがよいとすすめてあったので、マンの方が長い石段なのだろうが。

 上り始めて、マンだったのだとわかった。なかなか長く、10分くらいかかり上に達した。

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 内戦後の2002年にできた新しい仏塔。ここに人が集まり、祈っている。

 仏塔の前には僧侶が並んですわり、施しを受けていた。

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 仏塔の真下が寺になっていて、参拝する人で混雑していた。

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 仏塔の下からは平野が一望できた。プノンペンは右上あたりだが、肉眼でもよくわからなかった。

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 新しい仏塔が建っている場所が一番高いところで、そこからは尾根伝いの緩やかな坂を下っていく。途中にいくつか仏塔がある。

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 ある仏塔はよく見ると仏の顔が四面に彫られたものであった。なかなか珍しいものだ。

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 道端のお布施いれ。干支に合わせてカゴが12種類。

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 尾根を下ったところの祠。

 ここからはレディスステップですぐに下りられるのだが、ここからさらに石段を少し上がったところにある「18腕尺の仏陀のビハーラ」があり、行ってみる。

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 内戦で破壊され、応急修理をしたって感じだ。


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 内部も修復途中だった。黄金の大仏があり、多くの参拝者があった。

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 尾根伝いの道にならぶ仏塔がよく見えた。一番高いところにあるのが新しい仏塔。

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 レディスステップを下った。確かにわずかの距離であっという間だった。

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 すぐにトゥクトゥクで帰路に着く。

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 途中、仏塔のある丘がよく見えた。帰りは1時間半でホテルに戻れた。14時にホテル着。

  さて、ウドンと日本の「うどん」が関係するという考え方もあるのだ。徳川家康がカンボジア王に対し朱印船貿易を申し出て、その後、日本とカンボジアが貿易を開始。そしてカンボジアにも日本人が居住しはじめ、プノンペンに日本人町がつくられた。そして日本人が、当時は首都であったウドンで食べたカンボジアの麺を日本に持ち帰り、その麺が「うどん」と呼ばれるようになったというのだ。真偽はわからないが、なかなか面白い。

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2013年06月26日

トゥクトゥクで遠出

プノンペン旅行記2日目1回目

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 この日は一日フルで使える日だ。それでプノンペンの北40kmにあるウドンへ行ってみることにした。

 7時半にホテルのレストランで朝食。このホテルでは、朝食は正規料金の半額で宿泊者に提供されるとのこと。5ドルのところ、2.5ドル請求された。

 まずまずの朝食だ。旧フランス領らしく、パンはフランスパン。

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 8時半にホテルを出て、すぐ近くの交差点へ。トゥクトゥクが待機しているからだ。

 交渉の結果、30ドルでウドンを往復することになった。

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 途中、トンレサップ川のすぐ横を通った。

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 バイクが木のベンチを前向けに並べた長い車をひっぱるタイプの乗り合いの乗物を何度かみかけた。

 ミャンマーではトラックバスに乗ったことがある。トラックの荷台に前向きで木のベンチがとりつけられたものだ。今回見たものは、トラックの荷台の部分だけの車をバイクがひっぱるわけだ。これには乗る機会がなっかったが、乗ってみたいものだ。

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 田舎の食堂。衛生面が心配だから、食べてみたいとは思わないが。

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 トゥクトゥクの後ろを見たらまったく車が走っていなかった。前にもほとんどなしで、少し郊外に行くだけでなのに交通量がずいぶん減るものだと思った。

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 ウドンの遺跡が山上に見えてきたところで小さな道路に入った。

 バスだとどこで下車すればよいかということと、下車したところでトゥクトゥクが拾えなさそう(バイクタクシーならありそうだが、、)が問題のように思えるので、トゥクトゥクできて正解だったと思われる。

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 ウドンの遺跡が近づいてきて、ノロノロ運転になった。何か行事があるらしく、向かう車や帰る車が多い。

 警官が警備をする中、僧侶の一団が歩いていった。

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 順調に行けば1時間半あれば十分なところ、2時間ほどかかって10時半に麓の駐車場に到着した。

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2013年06月24日

北朝鮮レストラン

プノンペン旅行記1日目6回目

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 トゥールスレンを16時に出て、街歩きしながらホテルに戻った。

 プノンペンを南北に貫くモニボン通り。バイクが多い街でホーチミンやハノイに似ている。トゥールスレンから500mくらいで出られる。ホテルへはここを北に向かうのだが、南に向かった。南に500mほど、夕食時に訪問する予定の北朝鮮レストラン「平壌冷麺餐庁」があるので、場所を確認しておこうと思ったのだ。

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 モニボン通りに面していて、すぐにわかった。

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 しかも番地は400ジャスト。トゥクトゥクのドライバーにも伝えやすく便利だ。

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 そのあとはモニボン通りをどんどん北に向かった。ホテルよりも少し南のあたりで横道に入ると、会員制のような長距離バスを運行していて有名なキャピトルツアーがあるので、どんなところか見に行った。

 あまり大きくはなく、食堂の一角に長距離ツアーバスや近郊のパッケージツアーの窓口があった。長距離バスらしいバスも止まっていた。

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 キャピトルツアーのすぐ北側の道路は水浸しだった。先ほどのスコールの影響だろうか。

 モニボン通りをもう少し北上し、右折するとホテルがある通りだ。交通量も少なく、のんびりした通りだ。

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 ホテル近くのコンビニで飲物を買って帰った。部屋に戻ると、まずアンコールビールでのどをうるおした。

 17時にホテルに戻り、19時まで休憩。

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 19時にホテルを出て、ホテル近くの交差点に待機しているトゥクトゥクで北朝鮮レストランに向かった。”モニボン通り、400、コリアンレストラン”と簡単に場所を伝えられる。しかし、ドライバーはこのレストランを知らないうえ、さきほど歩いたモニボン通りを下らず、別の道を通っていったのものだから、自分もよくわからない。着くと19時25分。2ドル払う。

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 レストランはかなりの客の入りで、大部分が中国人のような感じだった。ビジネスマンらしきグループもあれば、観光ツアー団体もあった。日本人は見かけなかった。

 ここで少し誤算をした。20時からショーがあるものばかり考えていたのだが、19時30分からだった。ショーの出演者はウェイトレスも兼ねているので、ショーの準備が忙しいため、注文もなかなかとりにきてくれない。ようやく注文ができ、すぐにショーが始まった。

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 ショーの合間にビールが運ばれてきた。おつまみつきだ。

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 ショーは歌あり、踊りありで楽しめた。中国人客が多かったたため、中国の歌も歌っていた。曲名は知らないのだが、自分もよく聞く曲でメロディーは知っている。

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 楽器演奏もあったりと盛りだくさん。ショーは30分くらいで終わると思っていたら、45分ほど続いた。

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 ショーの終わりも近くなったことに注文した冷麺が運ばれてきた。その場でハサミで麺を切ってくれた。まぁ普通の朝鮮風の冷麺だ。

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 最後にスイカがでてきた。しめて14ドル。

 食べ終わり、ウェイトレスに見送られながら店を出ると、中国人客のための車が多数止まっていた。トゥクトゥクも待っていたので乗り込んで、ホテルに帰った。長い1日目が終わった。

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2013年06月23日

プノンペンのトゥールスレン刑務所

プノンペン旅行記1日目5回目

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 トゥクトゥクでプノンペン市内に戻り、トゥールスレン刑務所へ。今はトゥールスレン虐殺博物館になっている。ドライバーはここでも1時間を提案してきた。自分は2時間見学したかったので、キリングフィールドからここに向かう途中考えたプランを伝えた。

 ドライバーとはここで別れ、約束の10ドルを支払うというものだ。ここからホテルへは街歩きを兼ねてブラブラ帰ることし、ドライバーはここで仕事から解放させた。キリングフィールドではドライバーを2時間待たせたが、ここでは待つ必要がないので、ドライバーにとって拘束時間に変化がない。しかもここからホテルまでは自分を乗せなくてもよい。ドライバーも満足したようだった。

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 入場料は2ドル。すぐそばで小冊子を売っていて3ドルで購入した。 

 多くの市民が捕らえられ、ほとんどはここで拷問で殺されるか、キリングフィールドで処刑された。

 トゥールスレンはもともとハイスクールだった建物を転用した。見るからに学校という感じで、教室が並んでいる。ここには4棟のもと校舎があるのだが、これはA棟。

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 A棟の前にある墓。ベトナム軍が占拠する直前に殺された人たちの墓である。

 ポルポト派がここを撤退する直前にも虐殺がおこなわれたのだが、その死体が放置されたままになっていて、その写真も展示されていた。その人たちの墓なのだろう。

 トゥールスレンには14000〜20000人が収容されたが、生きて出ることができたのは、ベトナム軍が占拠したときに生きていた7人と他の刑務所に移送されて生きていた1人の計8人だけだという。

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 A棟1階の教室は、政府高官であった者を収容した部屋だった。ロンノル時代の政治家などを収容したのかと最初は思ったのだが、説明を見るとポルポト政権の高官で虐殺、処刑された者を収容したということだ。ロンノル時代の政治家などは、ポルポト政権になってすぐ処刑されていたのだろう。

 鉄製の足かせをはめ、ベッドにくくりつけていたようだ。1階にはこうした部屋が並んでいた。この棟は、1つの教室が1つの独房という形だったが、政府高官用だったからだ。

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 A棟2,3階は尋問室であった。尋問という名の拷問であったのだが。拷問によって罪を認めさせると、次には処刑が待っていた。

 尋問室の中には、黒板がかかったままの部屋もあった。学びの場が拷問や虐殺の場となったのだ。信じられないという思いで見て回った。そして写真を撮る気にはならず、とっていないのだが、床や壁のところどころに血が黒ずんだような箇所が散在しているのだ。

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 A棟3階の廊下。上の階まで上がってくる人は少なく、廊下を歩くのも気味が悪いものだった。下に階でさえ、見学客の数自体は多いのだが、みんな黙って歩いているので足音だけが聞こえるって感じだが、3階は静寂そのものなのだ。

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 A棟2階から拷問用具を見る。写っている校舎はB棟。

 柱の上部についている横棒から囚人が後ろ手にしてつるされ、上げ下ろしされたり、足からつるされ下においてある壷に水を入れて逆さまに水の中に頭を入れる拷問や、絞首刑に使われたのだという。

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 B棟も尋問室だったが、今は博物館。いくつかの部屋は犠牲になった人の写真で埋め尽くされている。

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 写真をとられる際の番号札の実物。これをぶらさげていた人は処刑されたのだ。

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 番号札をつけていない人の写真もあった。ほとんどが少年少女。ポルポト政権下では、古い思想に染まっていない子供が重用され、ここでも看守は少年少女が行っていた。子供が大人を拷問したり、処刑したりしていたのだ。写真は看守をしていた少年少女だ。しかし、彼らも施設の秘密を守るため、やがて処刑された。処刑前に撮影された写真だという。

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 ポルポトなど幹部の銅像の顔の部分が檻に入れられ、床に置かれていた。

 このほか、足かせが大量に置かれていたのが生々しかった。この写真の左のほうに少し写っている。

 撮影をする気分になれず撮影しなかったのだが、死体の写真も膨大な量が展示されていた。

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 B棟2階では、沖縄の平和祈念博物館とのコラボレーション展示が期間をくぎっておこなわれていた。平和を求める博物館として協力していて、沖縄の平和祈念博物館が技術的な援助もしているようだ。

 この展示はいくつのもの部屋の壁を取り去った長細い部屋で行われていた。学校のときには講堂だったのかもしれない。

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 トゥールスレンがベトナム軍によって占拠されたときに生き延びていた7人。(ほかに別の刑務所に移送されていた1人も生還者だ。)

 このうちの1人はトゥールスレン内の売店で働いていて、本などを売っていた。観光客の中には写真をとったり、一緒にとらせてもらっている人もいたが、自分はとても写真をとる気にはならず、撮影しなかった。

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 C棟は獄舎として使われていたためか、建物全体が鉄条網で覆われていた。

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 1階はレンガでつくられた独房であった。教室だった部屋の中に独房がつくれられているのだ。こんなところに閉じ込められることを想像するだけでも悲惨で吐き気がする。

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 独房の壁からは鉄の鎖が伸びている。両足に足かせをはめられて、鎖につながれていたのだろう。

 箱は用をたすためのものだろうが、部屋中、悪臭がただよっていたことだろう。

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 2階は木製の独房であった。これも教室だった部屋の中につくられている。

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 3階は雑居房であった。一見すると、何もない教室だったが、よく見ると、壁には番号が書いてあった。居場所が指定されていて、足かせをはめられていたのだろう。

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 D棟は1階が博物館であった。拷問用具や処刑用具が展示されたりしていた。これは水責めの箱。

 チュンエクはじめ各地のキリングフィールドの写真もあった。チュンエクはきちんと整備されて平和公園のようになっているが、地方のキリングフィールドのなかには整備がすすんでいないところも多いようだ。慰霊のために、また歴史を風化させないために国際的に支援してきちんと保存してほしいものだ。

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 ここからの生還者が見たことを描いた絵が何枚かあったが、これも衝撃的なものであった。ほかにも悲惨なものが何枚もあった。

 2階は閉鎖されていて、3階はビデオ上映をやっていた。しかし、非常に暑い中で見るのがつらく、終わりに近かったので、見ないで外に出た。

 このあと、売店で飲み物を買って一休みしてからトゥールスレンをあとにした。すでに16時近くで、2時間ほど滞在した。

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2013年06月22日

プノンペンのキリングフィールド

プノンペン旅行記1日目4回目

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  着替えなどをすませ、11時過ぎにホテルの前へ。空港から乗ってきたトゥクトゥクが待っていた。午後は、このトゥクトゥクでキリングフィールドとトゥールスレンを回る。

 まずキリングフィールドに向かう。ポルポト時代に大量虐殺があった場所だ。プノンペン訪問がほかの東南アジアの首都に比べて遅れたのは、キリングフィールドに行くことにためらいがあったことが大きいと思う。

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 キリングフィールドはプノンペンの南15kmほどのところにある。途中、道路の真ん中の部分だけが舗装され、両端が未舗装のままの区間がかなりあった。ものすごい土埃が舞い、タオルで口、鼻を覆った。ドライバーもマスクをしている。

 首都の少し郊外に行けばインフラ整備がまだまだ遅れていることがよくわかる。

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 ポルポトは1975年プノンペンを陥落させたのち、全市民に対し農村移住を命じた。市民は集団農場で強制労働につかされたという。ポル・ポトは原始共産社会を理想としたようで理解に苦しむ。

 旧体制のロンノル政権を支えた政治家、軍人や抵抗する人々は処刑され、教師、医師、技術者、僧侶など反抗するかもしれないと考えられた知識人が処刑された。のちにはフランス語を話せるとかメガネをかけているというだけで知識人とみなされ処刑されたという。彼らが収容されたのがトゥールスレンで、処刑場がキリングフィールドと呼ばれるチュンエク虐殺記念館であった。

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 12時すぎ、ホテルから1時間ほどでチュンエクのキリングフィールドに到着。ドライバーは1時間と時間を指定した。たぶん1時間では回りきれないだろうと思った。実際、ただ回るだけなら15〜20分で回れるが、オーディオガイドを全部聞き、ビデオもとなると2時間必要だった。

 正門は閉じられているように見えるが、右側の小さな入口から入場した。

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 入場券3ドル。

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 オーディオガイド3ドル。オーディオガイドは強制ではないが、あるのとないのとでは理解度は全然違うものになるだろう。

 あわせて6ドルを払う。入場券売場のそばにオーディオガイドの係りがいて、何語か尋ねてオーディオガイドを渡されれる。日本語のものもあった。

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 入場すると、まず正面に見えるのが慰霊塔。ここは最後に入場することになり、まず慰霊塔の右手から反時計回りにぐるっと一周することになる。一周して500mほどなのだが、オーディオガイドを全部聞こうとすると時間がかかるのだ。

 最初にこの写真を撮影した場所で、ポルポト時代やキリングフィードの一般的なことの説明を聞いた。

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 手前の看板のあるところが夜に処刑される人々を乗せたトラックが到着した場所。人々は別の施設に移されると言われトゥールスレンからここまで目隠しをして運ばれた。

 向こうの看板のるところには処刑人たちの事務所があったという。ここで処刑される人は処刑執行書にサインをさせられたあと処刑された。ポルポト政権の崩壊後、建物は壊されたという。燃料不足のため、木材を燃料として使うためだったという。

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  処刑場のあったところ。のどかな感じで、ここで虐殺が行われたとは信じがたい場所である。

 処刑のさいには、まず、ヤシの木の皮の鋭い部分でのどを切ったという。これで声を出せなくする。そのあと、斧や鎌などの農作業用の道具で頭を打つという苦痛を伴うようなやり方だったという。銃弾が不足していたため、銃殺は行われなかったという。

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 1979年、ベトナム軍のプノンペン占領後、ポルポト派は敗走し、ベトナム軍によって、ここから450人の遺体が発見されたという。

 ベトナムはポルポト派の悪行と報じたが、当時の世界はカンボジアに侵攻したベトナムが悪で、ポルポト派を擁護する傾向があった。ポルポト派の保護者のようだった中国を別にしても、西側諸国やASEAN諸国はベトナムとその背後のソ連が悪く、ポルポト派の悪行はみすごされた。

 虐殺が秘密裏に行われたこともあるが、ベトナム戦争でアメリカをやぶったベトナム憎しというムードが西側にはあったのだろう。残念ながら日本も大勢は反ベトナムで、唯一、共産党が反ポルポトを主張していた。自分も当時は侵攻したベトナムのほうが罪が大きいと感じていた。

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 たくさんの穴がある。遺体が埋められていたところだ。いまでも雨が降ったあとには、骨や衣類が土の中から出てくることがあるという。

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 虐殺されたのは知識人だけだけだはなかった。ベトナム系住民も多く処刑されたという。ここはベトナム系住民の遺体が多数発見された穴で、遺体には首がなかったという。ベトナムに対する憎しみが感じられる。

 伝統的にカンボジアはベトナムとタイの2地域大国にはさまれ、2国の関係はよくなかったが、ポルポト政権が打倒したロンノル政権の時代から国内のベトナム系住民は迫害が激しくなったという。そしてポルポト政権時代にはベトナム系というだけで処刑対象になった。ベトナム系のなかにはベトナムに逃れ、ベトナム軍のカンボジア侵攻とともにカンボジアに戻ったものも多いという。

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 子供を処刑するのに使われた木。処刑人が子供の両足を持って、頭を木の幹に打ち付けたのだという。根元には白いものが。ここで殺された子供の骨だろう。

 
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 マジックツリー。枝にスピーカーが取り付けられ、大音量の革命歌などを流して、処刑時の断末魔の声が外に漏れないよいうにした。外部ではポルポト派が革命歌と鳴らして集会を開いているのだと思われたという。

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 キリングフィールドをぐるり一周して、慰霊塔に戻ってきた。最後に慰霊塔に入り、殺された人々に対して黙祷。

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 塔の内部には13段の頭蓋骨の収納庫があった。収められているのは9000体分。ここで殺された人は2万人というから、まだ土の中にも多くの遺体が残されているのあろう。

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 最後に小さな博物館があったので、入ってみた。これは処刑に使われた凶器。背筋が寒くなった。

 別室でビデオ上映をしていたが、入ってまもなく終わりだった。

 門を出ようとしたらドライバーが中に入ってきていた。1時間のところ2時間入っていたので、探しにきたようだ。トゥクトゥクに乗ってから、しきりにロング、ロングと言っていたので、対応策を考えた。

posted by とんび at 21:39| Comment(2) | カンボジア